top of page

『極限適応』S・Gワインバウム作

  • 執筆者の写真: DBPM
    DBPM
  • 2020年8月6日
  • 読了時間: 38分

著作権が切れてしまった名作科学関連(SF)小説を講座で翻訳!

自宅待機で疲れたときは読書が最高!

第一弾はあのワインバウムの『極限適応』!




<著者紹介>スタンリイ・G・ワインバウム(1902―1935)


アメリカ出身。一九三四年に『火星のオデッセイ』を発表しSF文学に革命を起こした。アイザック・アシモフらによって絶賛され、米アメリカSF作家協会賞を最高得票で受賞。しかし、そのわずか一年半後に肺癌で急逝してしまった。現在でも伝説のSF作家として語り継がれ火星にはワインボウムの名を冠したクレーターもある。












『極限適応』


 ダニエル・スコットは情熱的に浮かれた様子で話し続けていた。そして、すべてを一気に話し終えた後、しばらく黙りこみ、窓の外に広がる町の姿を無言で眺めていた。  グランド・マーシー病院のヘルマン・バッハ院長はいきなり自分のオフィスにやってきて、自説をまくし立てた上、今は頬を紅潮させながら外を眺める目の前の若き分子生物学者を少し戸惑いながら見ていた。 「面白い説ではあるね……。つまり人が病気から回復するというのは『治癒』ではなく『適応』だ、と君は考えるのかね?」 「その通りです。僕の研究は生物の中で最も適応力があるものはなにか、ということから始まりました。そして、最も適応能力に優れた生き物は虫であると考えたわけです。昆虫の中には羽を切り落としてもすぐ新しい羽が生えてきたり、首を切り落としても他の虫にその首を移植できるようなものだっています。だとしたら、虫には『環境の変化に対する適応力』の秘密があるのではないか、と考えました」 「で、その秘密とやらを見つけたのかね?」バッハが肩をすくめながら聞いた。 「実は……はっきりとはしないのです」先ほどまでとは打って変わって表情を曇らせながら言った。「なんらかの内分泌物質だとは思うんです……ホルモンかなにかの一種ではないかと……。とにかく、私は虫の中で最も適応力に優れたものは何か、と考えました」 「蟻かね……?」 「いえ……蟻は進化しているとは思いますが適応力という面においては劣ります。答えはショウジョウバエです。ショウジョウバエはほかのいかなる生物よりも遺伝子変異を起こしやすい生物です。たとえば放射線の照射によって遺伝子変異を誘発すると白い目を持ったショウジョウバエが誕生するようになります。この『白い目』という特徴はその後の世代にまで遺伝します。つまり『白い目』という形態変化は放射線照射による一過性の変化ではなく『遺伝子そのもの』が変異を起こしたことを意味しています。ですから……」 「ああ、わかったよ」バッハが遮った。  スコットは一旦息をついてから続けた。 「ですからショウジョウバエを使ったんです。ショウジョウバエからいくつかの有力な内分泌物質を取り出し、牛に注射し血清を取り出し……まあ、細かな実験手技は割愛しますが……、とにかく私は『適応力』の秘密を持っている血清を作り出すことに成功したのです。そしてこの血清を結核に感染したブタに注射してみました」 「どうなったのかね?」 「治ったんですよ!注射されたブタは結核菌に『適応』したのです。次に狂犬病に感染している犬に試しました。これも治ったんです。感染症だけじゃありません。外傷にも効果がありました。背骨を折った猫にこの血清を打ったところ治癒してしまいました。ですから……」 「なんだね?」 「今度は人間に投与させてもらえないかと……」 「それは無理だ」バッハは眉をひそめた。「まずは猿に投与したまえ。人体実験などできるわけがないだろう。そんなに試したかったら自分の体にでも打ったらどうかね?」 「ええ、しかし僕の体はどこも悪くないんですよ……。それから猿を使う件ですが、実験用の猿を購入するための研究費がないんですよ。研究費の申請はもうしたんですが、却下されてしまいました」 「なら、ストーンマン財団に行って申請してみたらどうだね?」 「それはそうですが……ストーンマン財団に研究費を出してもらったら実験が成功した場合、すべての名声は財団に持っていかれますよ。グランド・マーシー病院はまんまと手柄を横取りされたことになります。バッハ院長……一例だけでいいんです。どうにも救いようのない手の施しようのない患者でいいんです……」 バッハはしばらく無言で考え込んだ。 「いいか……本当に手の施しようのない患者で……患者本人が了承してくれるような場合があったら、君に連絡しよう。しかし、これは倫理に大きく反する行為だ。他言無用だぞ」  スコットの表情が明るくなった。、  一週間後、スコットの実験室に置いてあるインターフォンが鳴った。 「スコット先生、バッハ院長がお呼びです」  スコットは実験を切り上げてすぐにバッハのオフィスに向かった。  オフィスではバッハが気乗りしない様子でスコットを待っていた。 「スコット、ちょうどいい患者がいる……これは明らかに『人体実験』だ……。倫理的に見て抵抗はあるのだが……患者が救えるのなら……」 「ありがとうございます!」 「よし……では、急ぐぞ。隔離病棟だ」  小さな隔離病棟で患者を見た途端、スコットは仰天した。 「若い女性ですか!」  その女は薄汚い格好をしていた。顔は真っ青で「死」が確実に彼女を蝕んでいた。顔つきは一抹の美しさがあったものの、髪はべっとりと脂ぎっていて女性らしい魅力はあまり感じられなかった。目は閉じられており、弱々しかったが喘ぐような下顎呼吸をしていた。 「人体実験……というより、この女性はすでに死んでいるようなものじゃないのですか?」 「結核だよ……」バッハが言った。「劣悪な環境で暮らしていた女性でな……この病院に運ばれて来たときには手遅れだった。すぐに治療したが効果がなくてね。もう喀血も何度も繰り返しているんだ……全力は尽くしたが……もってあと数時間という所だろう」  女が弱々しく咳き込んだ。口角から泡のような血液が少量吹き出した。彼女はゆっくりと潤んだ目を開けて、こちらを見つめた。 「目が覚めたかね?こちらにいるのはスコット博士だ……」バッハは女性の寝ているベッドのネームプレートを確認するとスコットに向かって「こちらはカイラ・ゼラスさんだ」と紹介した。  スコットは無言で軽く会釈した。 「ゼラスさん」バッハが優しい声で語りかけた。「さっきも話したが、あなたを救えるか、わからないのだが、スコット博士は君にある治療法を試したいそうなんだ……。試してみてもいいかね?」 「もちろんです……」カイラは弱々しい声で言った。「どうせ死ぬんです……」 「よし……スコット、血清は持っているかね?」  スコットが無色透明の液体の入った注射器を渡した。 「注射場所はどこでもいいのかい?」 「はい」 「では……」  バッハは手際よくカイラの腕に注射針を挿入した。カイラは微動だにしなかった。三〇CCほどの血清が彼女の静脈に注入された時、カイラは再び弱々しい咳をするとゆっくりと目を閉じてしまった。 「さあ行こう。なにか自分がとんでもないことをしている気がするよ!」バッハが吐き捨てるように言った。  翌日、バッハは前日ほどの罪悪感には悩まされていない様子でスコットに言った。 「カイラはまだ生きているよ。少し良くなった気がするくらいだ……。しかし、良くなったといっても少しだけだ。まだまだ望みは薄いよ」  しかしさらにその翌日、スコットは当惑した表情でオフィスのデスクに座り込むバッハを目にした。 「彼女は改善している……。間違いなく快方に向かっている。しかし、こういったことは病院では珍しいことではないのだからな!まだまだ安心できないぞ」  その週の終わりには確実にカイラは改善していた。もはや死人のように横たわっているのではなく、その瞳には生気が宿っていた。 「肺の病巣がなくなってね……」バッハがレントゲン写真を片付けながら言った。「咳もしなくなった。喀痰培養の結果も陰性だ。……それはいいのだがスコット。私は昨日、彼女の採血をしたときに見たことの方が気になるんだ。彼女の腕から注射器の針を抜いた時、通常だったら出血があるだろ?ところが針を抜いた途端に傷が治っちまったんだ」  さらにその翌週……。 「スコット、彼女はもう全快だ。退院してもいいと思う……ただ、彼女は監視下に置いておいたほうがいいと思うんだ。君の血清だが……気になるところがないわけではないし……。それに彼女を入院前の環境に戻すのは忍びなくてね」 「彼女は入院前は何をしていたんですか?」 「違法営業の縫製工場で縫い子をしていたんだ。まあ、教養もないし取り立てて美貌というわけではないが、なにか魅力のある子だしな。彼女はものすごく環境への適応が早いみたいだ」 「そうですね……」スコットは少し微笑んだ。「彼女は適応力があるんですよ」 「だからな、カイラには私の家に住み込みで家事をしてもらおうと思っているんだ」  退院の日にこのことを伝えると、カイラはとても喜んだ。 「もちろん!」彼女の顔が明るくなった。「ありがとう」  バッハは自宅の住所を伝え「お手伝いさんには君が来ることを伝えてある。今日のところは私の家で休んでいなさい。ただ、それだけでは退屈するだろうから一時間程度なら病院の裏の公園でも散歩してくるといい」  スコットはカイラが病棟のエレベーターに向かっていくのを見つめた。  元気に歩いていた。かつて死の床にあったときの彼女の姿を思うとずいぶんと元気になったと感心させられた。しかし、彼女の顔はまだやつれていたし、エレベーターに乗ってこちらを振り向いたときの様子は枯れ木に黒いコートが引っかかっているかのように見えた。  彼女がエレベーターの中に消えてから、スコットは病棟の雑務をこなし十五分ほどしてから研究棟に向かうためにエレベーターに乗った。  一階に到着すると病院の玄関ホールが大変な騒動に陥っていた。人だかりができて大きな怒号が聞こえていた。人だかりの中心では、二人の警官が血だらけの老人を担ぎながら走り抜けていった。 「事故か何かですか?」スコットは近くにいた野次馬に聞いた。 「事故じゃないよ!」興奮気味に野次馬が言った。「殺人だ!どうやら公園で変な女があの老人を大きな石で殴りつけたらしい……。女は老人の財布を持って逃げたらしいが……あ、どうやら警察が捕まえたらしいぞ!」  スコットが野次馬の指差す方を見ると、病院の窓の外で、警察が黒い服を着た若い女を連行していくのが見えた。  ―それはカイラだった。  一週間後、バッハは自宅のリビングで火のついていない暖炉を見つめながらまくし立てた。 「我々の責任ではない?そんな言い訳が通用するとでも思っているのか?血清を注射したから彼女の精神状態が不安定になって今回の事件を引き起こした可能性だってあるんだぞ!いいか?一人の罪のない人間が殺されているんだぞ!」 「しかし……」スコットは言い訳を試みたがすぐにバッハに遮られた。 「まあ仕方ない……。いいか明日のカイラの裁判に出席しよう。もしカイラが有罪になりそうだったら彼女の弁護士に相談して我々が証言台に立たせてもらおう。そして『彼女は重病を患った後で精神的に不安定だった』と証言すればいい。嘘ではないしな」  翌日、二人は混み合った法廷に緊張して座っていた。目撃者が出廷した。 「老人が鳩の餌用にピーナツをうちの売店で買いました。ええ、あの老人は毎日ピーナツをうちで買ってくれるんです。で、事件の日に、あの老人は小銭がなかったんです。それで財布を引っ張り出して……。財布の中には確かに沢山のお札があるのが見えました。それで次の瞬間、女が飛び出して大きな石をつかんだかと思うと、老人の頭をガツンとやったわけです」 「犯人の特徴を教えて下さい」 「やせぎすで……黒い洋服を着ていました。あまり美人ではありませんでした。髪は黒色、瞳は黒……もしくは茶色だったと思います」 「容疑者は茶色い髪で、瞳の色は黒または茶色だったと……?」神経質そうなカイラの弁護人が聞いた。 「はい」 「被告人、立ってください」  彼女が立ち上がった。カイラはスコットとバッハに背を向けていたが、立ち上がったその姿を見てスコットは自分の体がこわばるのを感じた。  彼女の印象が以前とずいぶんと違ったのだ。  最早、「枯れ木に黒いコート」などという形容は当てはまらなかった。彼女の後ろ姿は美しかった。 「法廷内では帽子を取りなさい」  裁判官の言葉に従い、カイラが帽子を脱いだ時、スコットは思わず息を呑んだ。  髪は黒くなかった。光り輝いていたのだ。 「裁判長、ご覧の通り被告は髪も黒くなく、瞳の色も黒もしくは茶色ではありません。彼女が勾留期間中に髪の毛の色を染めなおすことは不可能です。また仮に染めたとしても、瞳の色まで変えることができるでしょうか?」そう言うと弁護人は証言台の目撃者に向き直った。「あなたが目撃した犯人はこの女性ですか?」 「いや……しかし……」 「この女性なんですか!」 「ち、ちがいます!」 「以上です」カイラの弁護人が微笑んだ。「ではカイラさん、証言席へどうぞ」  カイラはまるで女豹のようになまめかしく動き、傍聴席の方に向き直るとゆっくりと証言席に座った。  こちらを見据えるカイラを見てスコットは思わず隣に座るバッハの腕をつかんだ。  彼女は銀色の瞳、アルミのような銀色の流れる髪、そして大理石のような澄んだ皮膚をしていた。彼女は、とてつもない美貌の持ち主になっていた。 「法廷の皆さんにあなたの口から事件の経緯を説明してください」弁護人がカイラに言った。  カイラはゆっくりと足を組むと、低いよく響く声で話し始めた。それは耳にとても心地よく響いた。 「グランド・マーシー病院を退院して……、私はうれしくて公園を散歩していました。そのとき突然、黒い服を着た女が走ってきて私の手に無理やり財布を握らせました。そしてあっという間にどこかに行ってしまったのです。次の瞬間、私は周りにいた人に取り囲まれて……以上です」 「その財布は空っぽだったというのですか?」今度は検察官が尋ねた。「では、あなたのバッグの中から発見された大金はどこから手に入れたのですか?」 「あれは私のです」カイラは顔色ひとつ変えずに言った。 「嘘だ!」バッハが小声でスコットに言った。「入院した時、彼女の持ち金は全部で二ドルしかなかったんだ」 「果たして……彼女は私たちの知っているカイラなんでしょうか?」スコットがつぶやいた。 「わからん……もう何もわからん。しかし、君のあの血清は二度と……。待て!スコット、見ろ!」 「何ですか?」 「彼女の髪だ!日光があたった時によく見てみろ!」  スコットはじっと目を凝らした。  午前中の澄んだ太陽の作る木漏れ日が法廷の窓を通して差し込んでいた。風が吹いて木の枝が揺れるたびに法廷の中に挿し込む光がキラキラときらめいた。そして、その光がカイラの髪に差し掛かった時……彼女の銀色の髪が見事な金髪に変化しているのがはっきりと見えた。  なにかが頭の中で「カチッ」と音を立ててハマったような気がした。  彼女が注射されたときの注射針の挿入部の傷……。  彼女の光に対する反応……。 「カイラと話さないと……」スコットが言った。「確かめたいことが……」  そのとき弁護人の冷たい声が響いた。 「裁判長、検察は被告が犯人であることを証明することができませんでした……従いまして本件に関しては起訴を却下していただきたく存じます」  裁判官はしばらくカイラの髪を見つめていたが起訴の却下を認め、閉廷となった。  次の瞬間、法廷は一気に騒がしくなりカメラのフラッシュがそこかしこで光り始めた。  証言席に座っているカイラはゆっくりと立ち上がり、魅力的で艶かしい笑顔を口元に浮かべ、悠然と法廷を去っていった。 「カイラ!」スコットは慌てて追いかけて法廷の外でカイラを捕まえた。  カイラは立ち止まりスコットを見つめると嬉しそうに目を輝かせた。 「スコット先生!」そしてバッハに向き直った。「それにバッハ先生まで……」  注意深く見れば、それは確かに彼女だった。あの隔離病棟のベッドの上に力なく横たわっていた彼女に違いなかった。しかし、その印象は全く別人のようだった。  カイラの周りにはカメラマンや新聞記者が押しかけており、大変な混雑だった。「どこか住む場所はあるのかい?バッハ先生のお宅に来てもいいんだぞ!」スコットがもみくちゃにされながら言った。 「ありがとうございます!」そう言うとカイラは詰めかける新聞記者に「こちらの先生たちは私のお友達なの!」と無邪気に言い放った。  午後になり新聞記者がようやく去った後、バッハとスコットはカイラをバッハの家に連れて行くために一緒に歩いていた。しかし、何気なくカイラの方を見たスコットは息を呑んだ。  午後の穏やかな太陽の光の中で、カイラの皮膚の色は最早、大理石のような澄んだ色ではなくなっていた。それは何時間も真夏の太陽に曝されていたかのような小麦色をしていた。瞳は青紫色に変わっており帽子の隅から覗く髪の色は黒くなっていた。  バッハの家に到着すると、カイラはバッハの書斎の暖炉の前にゆったりと座った。そこにいたのは法廷のときのようなアルミのような銀色の髪と大理石のような澄んだ肌を持った美貌の女性だった。 「洋服を買いに行きたいわ……だって、裁判が終わって私のお金が帰ってきたんですもの」 「わたしのお金、だって?」スコットが反論した。「退院した時は二ドルも持っていなかったはずだろう!」 「でも、このお金は私のものよ」 「カイラ……そのお金はどこで手に入れたんだ?」 「あの年寄りからよ」カイラはあどけない表情で答えた。 「君は……君はあの老人を殺したのか!」 「もちろんよ」 「なんてこった!」行き詰まるように搾り出して言った。「こんなことが許されると思うのか?」  しかし、カイラはゆっくりと微笑みながら首を振った。 「許されるわ……だって、無駄ですもの。同じ罪で二度私を告発できると思いまして?」 「しかしなぜ!なぜ君は……」 「私は元の生活に戻りたくなかったの。お金が必要だったのよ。だから奪った、それだけだわ」 「しかし、君のやったことは殺人だぞ!」 「それが一番やりやすかったからよ」 「でも、それで逮捕されたんだぞ!」 「釈放されたわ」穏やかにカイラが告げた。 「カイラ……」スコットは話題を変えることにした。「君の皮膚や瞳の色は太陽に照らされると色を変えるのはなぜだ?」 「そう?」カイラは微笑みながら言った。「気づかなかった」  カイラは退屈そうにあくびをすると、ゆっくりと手足を伸ばした。 「ねむくなっちゃった」  そう言うとカイラは美しく輝く瞳をスコットとバッハに投げかけると、彼女に与えられた部屋に向かって消えていった。 「見たかねスコット?」それまで無言でカイラを眺めていたバッハが口を開いた。 「ええ……、どうやらあの血清は彼女の適応力を極限まで高めているようです。生物とは環境に適応する能力を持っています。適応力が高いほど淘汰に勝ち残る可能性が高くなるわけです。通常、人間はこの『環境に対する適応力』を非常に穏やかな形で発揮します。例えば、日光に長時間さらされれば私達の体の皮膚は日焼けを起こします。これは太陽光の強い環境に対する『適応』が生じたわけです。事故などで右腕を切断した場合、人間は左手を利き腕として使えるようになります。これも『適応』のひとつです。皮膚に切り傷を負っても通常数日間で傷はきれいに治ります。これも『適応』です。地球上の人種の分布を考えてみてください。赤道に近く、太陽光が強いほど皮膚の色は茶色に近くなります。これも長い年月のうちに人間の体が環境に『適応』したことを示しています。  カイラに現在起こっていることは、なんらかの未知のメカニズムによって環境への適応能力が極限まで高められているのだと考えられます。太陽光線に当たればすぐに日焼けを起こし、日陰にいけばまたすぐに元に戻るのです、つまり、彼女は環境の変化に瞬時に適応しているわけです。瞳の色の変化に関しても同じです。  そして……恐ろしいことなんですが―、彼女は自分を取り巻く環境が『危険』である、と感じた時も同じように瞬時に適応することができるようになっているのです。わかりますか?法廷で裁判官や検察を前にしたとき……『男性』の検察や裁判官に接したときにカイラは危険を回避するための『適応』をしてみせたんです。  彼女は自分の外見を美しく魅力的な女性に変化させて男性の検察や裁判官に『働きかけ』を行なって有罪になることを回避したわけです。しかし……そのメカニズムは何なのか……」 「それは医学が解決する問題かもしれないな」バッハが言った。「皮膚の色の変化……これはホルモンのバランスによるものではないだろうか……。メラトニンというホルモンがある。これはカエルなどでは皮膚の色をコントロールしている。さらにカイラは自分の周囲の危険を察知して外見を変えることができる。しかも、この外見の変化は相手の感情に訴えかけるものだ。危険な相手の『感情』をコントロールする……これは脳神経系の働きが関与していることを示している」そう言うと老院長はしばらく考えこんだ。「メラトニン……脳神経……そうか、松果体だ!人間ではメラトニンは脳の中の松果体から分泌される。ここは大脳皮質が形成される前から生き物に存在した原始的な脳だ。古代では松果体には魂が宿っていると考えられていたんだ。  君の精製した血清はおそらく松果体ホルモンを増強する作用を持っているのだろう。カイラの松果体は君の血清によって肥大しているはずだ。スコット、君の血清は彼女を無敵に変えてしまったんではないか?」 「そうかもしれません……。いえ、おそらくそのとおりでしょう。彼女は電気椅子にかけられても死にません。なぜなら体が電流にすぐに適応できるからです。拳銃で撃ち殺すこともできないでしょう……それは注射針の一件からも明らかです。おそらく毒を盛っても死なないでしょう……。しかし……しかし、何か方法があるはずです!彼女にとっても越えがたい何かがあるはずです!」 「ああ、何かあるだろう」バッハがゴクリと唾を飲み込んだ。「例えば重さが何十トンもある様な巨大な重機にでも押しつぶされたら彼女もひとたまりもないだろう。しかし、忘れてはならんのは『適応』には二種類あるということだ」 「二種類……ですか?」 「そうだ。ひとつは『生物学的適応』、もうひとつは『人間としての適応』だ。君のような生物学者は『生物学的適応』に注目しがちだが、私のような脳外科を専門とする臨床医は『人間としての適応』に注目するのだ。  『生物学的適応』は植物から下等動物、人間にいたるまであらゆる生命体が持っているものだ。これは単純に周囲の環境に適応することに過ぎない。カメレオンが色を変えるように、または北極キツネが冬になると体毛の色を白に変えることなどが挙げられるだろう。逆に言うと、この『生物学的適応』ができない生物は死んでしまうわけだ」 「そして、もうひとつの『人間としての適応』とは……?」 「それはだな……周囲の環境の変化に応じて自分自身が変化する能力ではなく、自分にあわせて周囲の環境そのものを変化させてしまう能力のことだ。洞窟を去って草原に住み始めた原人は草原に小屋を建てることで環境を変化させた。エジソンは電球を発明することで『暗い夜』という環境を『明るい夜』に変えてしまった。それだけではない。ナポレオンやシーザー……彼らは政治力を発揮することで人類を取り巻く環境を変化させて『適応』させてしまったのだ……。カイラには『生物学的適応』能力は備わっている。髪の毛や肌の色が変化することからもそれは明らかだ。しかし……もし、もう一つの『人間としての適応』の能力も持っているとしたら……。恐ろしいことになる。しかも我々のような優れた『適応力』を持っていない人間にはなにもすることができない。ただ、指をくわえて見ているしかないのだ」 「しかし……そんなことが松果体からのホルモンだけで起こりえるのでしょうか?」 「なんだって起こりうる。カイラは君の実験に使ったショウジョウバエと同じだ。自由自在に遺伝子変異を操っているのだ。……もし、哲学的な表現を使うのだとしたら、カイラは人類の新しい進化の形態なのかもしれないな」 「遺伝子変異による進化ですか?」 「そのとおりだ。化石を見るかぎりにおいて地球上の生命には『進化』が起こったことは間違いない。しかし、『進化』の概念には大きな疑問もあるのだ」 「と、言いますと?」 「ダーウィンが提唱した進化の考え方では遅すぎるのだよ。目を例にとって考えてみよう。ダーウィンによれば目は、はるか古代の海に住んでいた生物の表面に光に反応する『点』がたまたま出来たことに由来すると考えられている。この光に反応する点を持っていた生物は点を持っていない生物より有利に動き回れたから生き残り、点を持っていない生物は死に絶えた。これが何千世代にも渡って続いた結果、より高度な光反応性の点を持っている生物が生き残り、結果として現在の人間が持っているような目が出来上がったと考える。しかし、この考え方には落とし穴がある。もし、ゆっくりと進化が起こるのだとしたら、光反応性の『点』が出現した時だって、非常にゆっくり出現したはずだ。『点』が『光に反応する』という特性を発揮できるようになるまでの間にも膨大な時間が流れたはずだ。その間になぜ、ただの『点』を持つ生物が有利に生き残ったのか、という点が説明がつかない。極端に言えば鳥の羽だって『飛ぶ』という機能を発揮しなければ進化において有利には働かない。だとしたら『飛ぶ』機能を持つ前段階にあった羽を持っていた生物が生き残った理由がない」 「では、なぜ?」 「私は進化とは飛躍的に起きるのではないかと思う……。つまり目であれば、目として完全に機能する形で突然出現したと考えるのだ。そうすれば種の生存に直接的に有利に働くことができる。つまり突然変異こそが進化の正体なのだ。そう考えると……カイラは人類から超人類への飛躍的な進化であると捉えることができる……」  その晩、家に帰ったスコットは一睡もできない鬱々とした夜を過ごした。  次の日、バッハは出張で不在となりスコットがカイラの相手をすることとなった。  スコットは最初何事もなくカイラと過ごしていたが、数時間ほど経過したときに前日バッハの言っていた『人間としての適応』と『突然変異』の意味を思い知ることとなった。  午後になってスコットはカイラに自分自身の変化をどう受け止めているのか質問していた。 「自分が変わったって思わないかい?」 「私じゃないわ、世界が変わったのよ」 「しかし、君の髪は元々黒だったじゃないか。今の君の髪の色は銀色だ」 「あら?そうだったかしら?」 「カイラ……」スコットは唸るように言った。「自分でも何か変化を感じているはずだろう」 「ええ、感じるわ」カイラは目の色をシルバーに変え無邪気にキラキラと光らせながら言った。「私が欲しいと思ったものは何でも自分の物にできるわ」  そして最後に恐ろしい言葉を付け足した。 「今、私が欲しいのはスコット先生、あなたよ」  次の瞬間、カイラの外見が変化した。元々、美しかったがそれに艶めかしさが加わった。それは男にとっては抵抗しがたいほどの魅力だった。  しかし、スコットはすぐにわかった。今、彼女は「好きな男性を持ちたい」と願うことによって環境を変化させたのだ。スコットが彼女を好きにならないではいられない、という状況を……環境を作り出したのだ。カイラを取り巻く環境―つまりスコットを適応させようとしたのだ。  しかし、スコットは自分を思いとどまらせた。彼女がいくら魅力を放っていても、それが自分の実験によるものなのだと考えると、不思議とカイラに魅力を感じなかったのだ。  数日間は何事もなく過ぎ去っていった。  スコットはある日モルモットに血清を注入し、カイラと同様に切り傷に対する即効的な治癒力が出現するのを確認して、斧をつかって文字通り体を真っ二つにして殺した。そしてモルモットの脳をバッハに調べてもらった。 「思ったとおりだ」観察していたバッハが言った。「松果体が肥大しているぞ。だとすれば……」バッハがスコットに向き直った。「カイラの松果体を手術で切除してあげれば、彼女は元に戻ることができるぞ」 「しかし……、その必要があるのでしょうか?手術そのものに危険が伴います。私たちがきちんと保護していれば彼女は誰も傷つけたりしないと思いますが……」  バッハが苦笑した。「年を取るというのはこういうことなのかな……。私は彼女を見ても魅力も何も感じないのでね……。いいかスコット。彼女をこのまま放っておいてはいけないのだよ。彼女はすでに人類にとって危険な存在になっているのだ。我々は彼女を手術しなければいかんのだ」  一時間後、バッハが「検査のため」と嘘をついてカイラに通常の人間なら簡単に眠りに落ちるほどの容量のモルヒネ注射を行った。しかし、カイラは瞬きを一、二度しただけでモルヒネに適応してしまった。薬の注射は無効だった。  その夜、バッハが新たな手を思いついた。「吸入麻酔を使おう。注射には適応できても呼吸によって吸入される麻酔には適応できない可能性がある。試してみよう」  二人はカイラの寝室に物音を立てないように用心しながら入っていった。月夜の暗闇の中で青白く、しかし美しい表情で寝ているカイラの姿にスコットはしばし魅せられた。  一方、バッハはゆっくりと慎重に吸入マスクをカイラの口にセットし吸入麻酔剤の投与を開始した。  吸入麻酔を開始して数分が経過した。 「象だって麻酔にかかるほどの量を使ったぞ」バッハはそう小声で言うとマスクを少し動かした。  その時、カイラが目を覚ました。彼女の釣竿のように細い手が吸入マスクを抑えるバッハの手首をつかんだ。 「バカね」カイラは静かに言った。「こんな物は効かないわ……御覧なさい」  そう言うとカイラはテーブルの上のペーパーナイフをつかむと自分の胸に向かって打ち込んだ。  スコットは恐怖に思わず息を呑んだ。彼女が胸からナイフを引き抜くと、赤い血が一筋ツツッと流れていった。しかしカイラがその一筋の血を手で拭き取ると、そこには傷ひとつ残っていなかった。  翌日、スコットとバッハが目を離した隙にカイラは家からいなくなってしまった。  二人は慌てて近所を探したが、彼女の姿は、もうどこにもなかった。  夕方になってカイラは帰ってきた。いつも被っているはずの黒い帽子を被っていなかった。彼女は髪の毛の色の変化の様子を魅せつけるかのように堂々と家の中に入ってきた。そのとき、カイラの髪の色は赤褐色から銀色に変化した。 「ただいま」カイラは無邪気にスコットに話しかけた。「ねえ、子供を殺してきちゃった」 「なんだって!」 「事故だったのよ。仕方ないじゃない……ね、そうでしょ?スコット先生」 「いったいどうやって……」スコットが恐怖に駆られて聞いた。 「散歩しようと思ったのよ。でもしばらく歩いていたら、車を運転してみたいなあ、と思って……。そしたら目の前に鍵がついている車があったの。持ち主は道端で話し込んでいたから、ちょっと借りて運転してみたの。そしたらスピードが出過ぎちゃって……で、子供を轢いちゃったの」 「ひ、ひき逃げをしたのか?」 「もちろんよ。しばらく運転し続けて車を棄てて事故のあった場所に行ってみたわ。人だかりはあったけど子供はもういなかったわ。誰も私が運転していたとは気づいていなかったから大丈夫よ」  スコットは頭をうなだれるしかなかった。 「カイラ……きちんと警察に行かなければダメだ……」 「イヤよ!だって事故だったんですもの」 「関係ない……警察に行くんだ」 「わかったわよ……明日にでも行くわ」カイラは悪びれずに白い手をうなだれるスコットの肩に置いた。「それより先生、私すごいこと発見しちゃった。いい?この世の中では力のある者が一番強いのよ。だからこの世に私より力のある者がいる限り、私戦わなくちゃいけないと思うの。だって、力のある奴らは私を法律で裁こうとするでしょ?でもね、その法律って奴らの法律であって私のじゃない。だから私を裁くことなんて誰にもできないの」  スコットは答える言葉を失った。 「だからね」カイラはやさしい声で言った。「私、明日この家を出て、力を求める旅に出るわ。どんな法律よりも強くなってやるの」 「カイラ!」スコットは衝撃を受けた。「ここを絶対に出ていってはいけない!」スコットはカイラの両肩をつかんだ。「いいかい、誓うんだ!一人で決してこの家を出ていかないって!」 「まあ、先生がそう言うなら……」 「いいから誓うんだ!」  カイラが澄んだ瞳でスコットを見つめた。 「わかったわよ……誓うわ……先生がそんなに言うなら……」  しかし、カイラは翌日には家からいなくなった。スコットとバッハの財布と一緒にどこかへ消えてしまった。 「しかし、彼女は誓ったんです!」スコットが言った。「カイラは僕の目をじっと見て……決して一人で外出しないと誓ったんです。あんなに無垢な表情で僕を見つめてくれたのに……嘘をつくなんて……」 「嘘をつく、というのも適応能力なのだよ……」 「しかし……!」 「とにかく彼女は嘘をついたのだよ。それより君の言っていた通りカイラが力について興味を持っているのだとしたら大変なことだ。彼女はついに適応の次の段階に入ったのだよ。それこそが私の言った『環境を自分にあわせて適応させる』ということだ。彼女の狂気……いや、天才ぶりが行き着く先にはなにがあるのか……本当に狂気と天才の間には境目がないのかもしれない……。最早、我々にできることは指をくわえて見ているだけ、ということなのかもしれんな」 「指をくわえて……見ている?どうやってですか?彼女がどこにいるかもわからないのに!」 「落ち着きたまえ……私の思うに、彼女が一旦行動を取り始めたら、彼女がどこにいるかなんてすぐにわかるようになるさ。今、彼女がどこにいるとしても、我々は……いや、人類全体はすぐに彼女の行動について知らされることになるよ」  しかし、しばらくの間カイラのその後は全くわからなかった。バッハは日常の臨床業務に復帰し、スコットは実験室で今回の研究に関するすべての資料や検体、そして問題の血清を処理することに追われていた。  そんなある日、スコットはインターフォンでバッハのオフィスに呼ばれた。オフィスに行くとバッハが新聞をスコットに渡した。 「見てみたまえ」  バッハが差し出した新聞には『ワシントンの裏話』という記事が書かれていた。 ワシントンの裏話  自称『議会の独身貴公子』ジョン・カランの今度のお相手はカイラ・ゼラス嬢だ。ゼラス嬢は黒髪、銀髪、金髪の各種のウィグを使いこなす美貌の持ち主だ。ゼラス嬢はかつて殺人事件の容疑者として逮捕されたこともあったが無罪となってい……。 「カラン……財務省長官じゃありませんか!……彼女が『力』と言っていたのはこのことだったのでしょうか……」 「いや……これは『力』を手に入れるための第一歩に過ぎないのかもしれない」 「いったい……、彼女はどこまで……」 「彼女……?これはただの女性ではないんだよ……カイラ・ゼラスだ。人類を越えた超人類だ。彼女がどこまで行くのかは誰にも想像できないんだよ」  このバッハの予想は的中した。それからカイラの名が頻繁にメディアに登場するようになった。 『財務長官のお相手、果たして結婚はいつ?』 『カイラ・ゼラス嬢は財務省の影の支配者なのか?』 『カイラ嬢はクレオパトラの再来なのか?』  スコットは新聞記事の『クレオパトラの再来』の言葉に不気味さを感じた。メディアがすでにカイラの影響力について直接的な表現を避けているのが感じられた。これはカイラが政治に及ぼす影響力が大きくなったことにメディアが警戒感を感じている証拠のように思えた。  実際、カイラに関する記事は徐々にカラン長官とのスキャンダルの面が強調されるものが増えていった。  寝ている時も起きている時もスコットはカイラのことが忘れられなかった。彼女が狂気に陥っていようと、天才であろうと、超人類であろうと、スコットにとってはカイラはあの隔離病棟で力なく横たわり喀血しながらスコットを見つめていた少女だった。  ある晩、スコットはバッハの家に呼ばれた。慌てて駆けつけるとそこにはカイラがいた。  カイラはバッハの家のリビングで、くつろいだ様子で座っていた。スコットは彼女の変わり様に目をみはった。  カイラはタバコを吸い、長い灰色の煙を噴きだすとスコットに微笑みかけた。 「どうしたんだ?今さら僕たちの所に帰ってきて……金がなくなったのかい?」スコットが聞いた。 「お金?そんなものは関係ないわ。私がお金に困るわけないじゃないの」 「だろうな……。君は金を盗むタイプだからな」 「ああ……、私があなたの財布を盗んだことを言っているのね」カイラはバックから札束のつまった財布を取り出した。「ごめんなさい。いくらだったかしら?」 「金なんてどうでもいいんだ!僕がどれだけ傷ついたと思っているんだ?君を信じていたんだぞ!なのに、君は嘘ばっかりじゃないか!」 「そうなの……?」またカイラは無垢な表情で言った。「約束するわスコット先生。私、先生には二度と嘘をつかないわ」 「もう騙されないぞ……いったい僕たちに何の用なんだ?」 「スコット先生に会いに来たのよ」 「では、君は力を手に入れることは諦めたのかね?」バッハが聞いた。 「力なんか欲しくないわ」 「でも、君は……」スコットが言った。 「そんなこと言ったかしら?」彼女は妖艶な笑みを浮かべた。「そうねスコット先生……先生には嘘はつけないわね。私は確かに力が欲しいの……先生が想像できないほどの大きな力が欲しいのよ」 「そのためにジョン・カランを利用しているのか?」 「あの人に近づいたのは、私が力を入れる上で手っ取り早い方法だったからよ。たとえば……たとえば彼がヨーロッパの経済とアメリカ国債について非常にマズイ発言をしたとしましょうよ……」 「そんなことをしたら世界はめちゃくちゃになるぞ!」 「だから何よ?」カイラが退屈そうにあくびをした。「ねえ、私が世界の支配者になったらどうなると思う?私が女王になったら……」 「君はカランに問題発言をするように促すつもりなのか?」 「促す?」カイラが軽蔑するように言った。「私が彼に命令するのよ」 「本気なのか?」 「そうは言っていないわ」彼女は再び笑った。「ここに二、三日いさせてね……じゃあ、おやすみなさい」  そう言うとカイラは立ち上がり寝室に行ってしまった。 「クソ!」スコットは思わず言ってしまった。「彼女、本気でしょうか?」 「本気だろうな」 「女王?なんの女王になるつもりなんでしょうか?」 「世界を支配する人類の女王になろうと考えているのだろうな。彼女の可能性は無限大なのだよ」 「カイラを止めなければ!」 「どうやって止めるというのだね?彼女をここに閉じ込めておくわけにはいかないだろう。それに仮に閉じ込めても彼女の適応力をもってすれば脱出することは簡単だろう」 「カイラが精神的に不安定だということにして強制入院させておけばどうですか?」 「強制入院させるためには裁判所の許可が必要なんだぞ。できるわけがない」 「わかりました……」憮然としてスコットは言った。「残された手は彼女の弱点を探し出すことですね。カイラの適応力だって完全ではないはずです。薬品、外傷、吸入麻酔すべてに適応してしまいます……。しかし、カイラは生物であることには変わりありません。つまり生物としての最低限の生物学的法則に従って生きているはずです。ですから、その裏をかいてやれば……」 「それは君の仕事だ」 「それ以外にも出来ることがあるはずです。少なくとも人類に何らかの警告を発しなければ……」 「警告?なにを警告するのだね?そんなことをしたら私達が強制入院させられるぞ。カイラはカランをはじめとして政治家を味方につけているのだぞ。私たちの言葉に耳を貸す者なんているはずがないだろう」 「とにかく私は今夜はここにいます。明日の朝、もう一度彼女と話し合いましょう」 「もし、カイラがここにいたらな」バッハが皮肉を込めた口調で言った。  しかし、カイラはその翌朝になってもどこにも行かなかった。  スコットがバッハの書斎で朝刊を読んでいるとカイラが音もなく入ってきてスコットの向かいに座った。黒いシルクのパジャマが彼女の白い肌と美しいコントラストを作っていた。スコットはまぶしい朝日に照らされてカイラの髪が美しい金髪に変化するのを見た。 「昨日の夜は誰も殺さなかったようだね」スコットは精一杯の皮肉を込めて言った。 「どうして?殺す必要なんかないもの」 「カイラ……君は自分がなにをしているかわかっているのか?君を殺さなくてはならないかもしれないんだぞ」 「あらスコット先生、でも先生は私を殺さないでしょ?だって先生は私のことを愛しているんだもん」  スコットは何も言えなかった。否定できない自分がいることに愕然とした。 「スコット先生……勇気を持って。私、先生と一緒に力を持ちたいの。先生さえその気になってくれれば……一緒にワシントンに行きましょう……。私、明日ワシントンに出発するわ」  その夜、スコットはバッハに告げた。 「カイラは明日ワシントンに行きます。今夜中に手を打たなければ!」 「何が出来るというのだね……」バッハは諦め顔で言った。「なにかいい作戦を思いついたかね」 「それなんですが……」スコットが苦しそうな表情で言った。「その、確実に効果があるかわからないのですが……。生物の基本原則を逆手に取ったらどうかと思うのです。生物がその体から排出する物質は基本的には体が不要とした物質です。ですから、排出したものだけを摂取した場合、生物は生きていくことができません。そこで注目したのが二酸化炭素です。カイラは呼吸によって排出される二酸化炭素にだけは適応できないのではないかと思います」 「確かなのかね?」 「わかりません……彼女の適応力がそれを超えている可能性も否定できませんが……。これは一種の賭けです。ほかには手段がないわけですから……」  バッハはしばらく腕を組んで考え込んでいた。 「わかった……。二酸化炭素のボンベは病院から私が調達しよう。カイラにどうやって二酸化炭素を吸入させるつもりだね?」 「カイラの部屋の暖房ダクトは隣の部屋につながっています。ですからダクトを使って隣の部屋からカイラの寝室に二酸化炭素を放出すれば……」 「よかろう……。しかし窓はどうするかね?カイラは昨日、窓を開け放って眠っていたぞ」 「それは私に任せてください」 「うまくいったとして……彼女を殺すつもりかね?」 スコットは首を振った。「それは……僕にはできません……。もし、彼女が意識を失ったら……先生が手術してくれませんか?彼女の松果体切断手術を……」  その晩、スコットは怪しまれないように夜遅くまでカイラの話し相手になっていた。カイラはひときわ美しく感じられた。スコットは自分がカイラに恋していることを改めて確認した。それだけにこれから行おうとしていることに罪悪感を感じた。それはスコットにとっては拷問にも近い時間だった。 「彼女は人間じゃない……。悪魔なんだ……」  スコットは何度も自分に言い聞かせなければならなかった。  しかし、カイラがついに眠そうにあくびをして寝室に向かった時、スコットはもう少しカイラと話し続けていたい気持ちになった。 「まだ早いよ……君は明日になったら行ってしまうのだろう?」 「スコット先生、必ず帰ってくるわ。先生とは離れたくないもの」 「だといいんだが……」  スコットはカイラが寝室に向かう後ろ姿を複雑な気持ちで見送ると、バッハのいる書斎に向かった。 「おそらくすぐに寝てしまうと思います……。それも『適応』ですから」 「では……はじめるとするか」  二人はカイラの寝室の光がすでに消えていることを確認すると、カイラの寝室の隣りの部屋に入っていった。そこには二酸化炭素の大きなボンベが三本。銀色の不気味な光を放っていた。  バッハは手際よく暖房ダクトに二酸化炭素ボンベのチューブを接続させた。  一方、スコットはカイラの寝室へと向かった。カイラの寝室はカギがかかっていなかった。スコットはカイラのベッドの脇に立ち、彼女の寝顔をじっと見つめた。そして、音をたてないように用心して小さなろうそくに火をつけると、そっとカイラのベッドの脇に立てた。  そして足音をたてないように用心しながら寝室を出るとドアにカギをかけ、ドアの下の隙間に用意しておいたボロ布を詰め込んだ。  バッハのもとに戻ったスコットは「一分間待って、それから二酸化炭素の注入をはじめてください」と告げると、窓の外に出てベランダ伝いに隣の部屋の窓に忍び寄った。  カイラの寝ている寝室の窓は大きく開いていたが、外から音一つ立てずに閉めることができた。そして用心しながら中を覗いてみた。  カイラの脇では、さっき置いてきた小さなろうそくが静かに光を放っていた。ろうそくの光に照らされてカイラが背を向けて眠っているのが見えた。その背中はゆっくりと上下していた。  とても長い時間が過ぎ去ったように感じられたその瞬間、隣の部屋でバッハが二酸化炭素のボンベのコックを開放した音が聞こえた。カイラの寝室ではまだ、何も起こらなかった。相変わらずカイラは安らかな眠りの中にあった。  しかし、しばらくして変化が現れた。ベッドの横で穏やかな光を放っていたろうそくの光が突然小さく弱々しくなっていった。そしてついに消えてしまった。  ろうそくの光が消えたということは二酸化炭素の濃度が十%を越えたということだった。人間の生命を維持するには難しい濃度になりつつあった。しかし、カイラは生きていた。ただ、その呼吸はそれまでよりも深く大きくなっていた。ただ、決して起きはしなかった。低酸素状態にも適応しつつあるのだ。ただ、この適応には限界があるはずだった。限界がなければスコットの作戦は失敗だったことになる。  次の瞬間、カイラの呼吸が突然早くなった。 「チェーン・ストークス呼吸だ……」スコットは思わずつぶやいた。おそらく息苦しさから目をさますことになるはずだ。  スコットの予想は当たった。  カイラは大きく目を見開いた。あえぐような呼吸を始めると苦しさのあまりか両手で首をかきむしった。危険を察知したのか立ち上がってドアをめがけて走り始めた。しかしカギがかかっていてドアが開けられないことを知ると窓に向かって突進してきた。しかし、すでに体はふらつき、窓に到達できるかもあやしいほどだった。それでもなんとか窓にたどり着いたカイラは恐ろしい形相で窓の外を見た。カイラの目の前にスコットは立っていたが、苦しさによって目は焦点を結んでいないようだった。カイラは最後の力を振り絞って窓に向かって拳を振り上げたが、その拳はゆっくりとやわらかい音を立てて窓に触れただけだった。そして、そのまま目をゆっくりと閉じ、床に倒れていった。  スコットは永遠に続くかの苦しく長い時間、そこに立って待っていた。  確実にカイラが動かなくなったのを確認してから、隣室の方に行き壁を蹴りつけてバッハに二酸化炭素の注入を止めるようにサインを送った。そして、カイラの寝室の窓を開き意識を失って倒れているカイラを両腕で抱きかかえた。そして急いでカイラをバッハの書斎に連れていった。  書斎には急ごしらえの手術台が準備されていた。 「女王もついに倒れたか……」バッハが穏やかな声で言った。 「急いでください。麻酔をかけたわけではないんです。気を失っているだけです。いつ適応してしまっても不思議ではありません」  しかし、カイラは手術台の上に横たえられても意識を取り戻すことはなかった。しかし、念のため体と腕、脚をベルトで手術台に固定した。  スコットは手術台の上に横たわるカイラを見た。真っ青な顔をして弱々しく横たわっていた。こんな弱々しいカイラの顔を見るのは久々だった。 「開頭手術にするかね?それとも経鼻でゾンデを突っ込んで松果体を切断するかね?」 「経鼻にしてください」 「しかし、経鼻手術の場合、肥大した松果体を観察することはできないぞ」 「経鼻で!」思わず強い口調で言ってしまったが、すぐに冷静さを取り戻した。「すみません……彼女の頭に傷跡を残したくないんです」  バッハは軽く肩をすぼめると早速手術にとりかかった。スコットは助手としてバッハの指示に従って手術器具を手渡していたが、手術そのものを見るのは辛かった。 「さあ、手術終了だ」  その声を聞いて、スコットはようやくカイラの顔をまじまじと眺めた。  彼女の銀色に光る美しい髪は最早そこにはなかった。黒い脂っぽい、決して美しくはない髪がそこにはあった。そしてまぶたを持ち上げると、そこにもシルバーではなく、濁った青い瞳があった。  あの隔離病棟にいた頃の彼女がそこにはいた。  超人類は消えていた。そこにいるのはただの行き場のない、みすぼらしい少女だった。  思わず言葉がスコットの口から漏れた。 「なんてきれいなんだ……」


Comments


bottom of page