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<コロナの時代に考える>黒死病の正体は??


ヨーロッパ黒死病流行のはじまり―カッファの戦い

一三四七年十月、イタリア半島の先にあるシシリー島の港町メッシナに黒海からやってきた貿易船が入港した。当時、黒海周辺はヨーロッパ各国にとってアジアとの貿易を行ううえでの重要な中継地点だった。

したがって、シシリー島のメッシナに黒海からの貿易船が入港するのは珍しいことでもなんでもなかった。しかし、今回は事情が少し異なっていた。貿易船には原因不明の病気による死者と瀕死の重病人が乗船していたのだ。この貿易船が入港してわずか数日の間にメッシナの町には次々と病気に倒れる者が現れた。死者の数は瞬く間に増加し、近隣の村々にも死者が出現した。フランシスコ修道会のピアッツアのミカエルと称する人物はこのときのメッシナの様子を「人々は発熱やのどの渇きを訴えた。なかにはあまりの発熱のため全裸で町を走りぬけ、貯水槽に飛び込み絶命する者、窓から飛び降りる者もあった。死だけが彼らを苦しみから救った」と記している。

その後、百三十年間に渡ってヨーロッパで猛威を振るう黒死病の始まりだった。

さて、ヨーロッパ全土に拡大した黒死病の出発点がメッシナであったことは間違いないようだが、黒死病はいったいメッシナにはどうやって来たのだろうか。

興味深い文献がひとつある。

ジェノバ生まれの記述家、ガブリエル・デ・ムッシが一三四八年(または四九年)に書いたとされる書物がそれである。この書物のオリジナルはすでに失われてしまっているが、一三六七年に作られた複写本が残されている。この複写本は手作業によってオリジナルから書き写されたものだが、その最初のページの一番上に複写した人物が書き込んだと思われる注釈が残されている。

そこには「神の名にかけて一三四八年に始まった災厄(黒死病の流行)の元凶が、ここに記されている」とある。そして続く本文には一三四六年に行われた黒海沿岸の商業港湾都市カッファをめぐるジェノバ共和国とジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の攻防戦が記されている。

カッファは一二六六年に商業を中心に栄えた海洋都市国家ジェノバ共和国が、この地域に勢力を伸ばしていたジョチ=ウルス、すなわちキプチャク・ハン国との協定に基づいて作り上げた大商業港湾都市だった。カッファの港は西にのびる地中海への海洋貿易路と東にのびる中央アジアから中国に向かう陸上貿易路が交差する貿易上の要となる都市でもあった。ジェノバ共和国はカッファを通じて、文字通り地中海貿易を独占し支配した。当然、黒海沿岸を実質的に支配していたジョチ=ウルスとはカッファの権益をめぐってしばしば対立した。

ジョチ=ウルスはまたの名をキプチャク・ハン(金帳汗)国とも呼ばれる。モンゴル帝国分裂後にチンギス・ハンの長男、ジョチがモンゴル高原西域に築き上げた国家だった。「ウルス」とは遊牧民であったモンゴル人にとって「国家」または「集合体」といった意味合いをもつ。したがって「ジョチ・ウルス」とは「ジョチの国家」という意味になる。別名にあたる「キプチャク・ハン(金帳汗)国」とは国を支配したジョチとその後裔たちがその住居(モンゴル式のテント型住居)の張幕を金の装飾で彩っていたことから「金帳」と呼ばれたことに由来する。

ジョチ=ウルスとジェノバ共和国はカッファをめぐり一三〇七年からたびたび衝突を繰り返していた。一三四〇年頃には、度重なる衝突によりカッファはジェノバ共和国の商人たちの手によって何重もの城壁に囲まれた要塞都市と化していた。そして一三四三年、ジョチ=ウルスのジャニペグ・ハンは軍隊を率いてカッファを包囲し戦闘状態に突入した。戦闘は長期化し、戦線は一進一退を繰り返した。そしてついに一三四五年、ジョチ=ウルス側が有利な形でカッファの包囲を構築しカッファ陥落も時間の問題になったかに思われた。しかしそのとき、ジョチ=ウルス側の兵士に原因不明の死者が続出した。疫病の発生だった。一説には千人以上の死者が出たとされるジョチ=ウルス軍は撤退を余儀なくされ、カッファの都はついに開放された。

ところが、このときジョチ=ウルス軍は撤退にあたり、最後の抵抗を試みた。彼らは疫病の犠牲者の死体をカタパルト(投石機だったという説もある)に載せて、城壁を越えてカッファの都の内部に投げ込んだ。カッファの都はついに開放されたものの、高い城壁の中はジョチ=ウルス軍の兵士の死体であふれた。人々はカッファの開放を祝ったのもつかの間、ジョチ=ウルス軍が経験したものと同じ原因不明の疫病により次々と倒れていった。このときカッファは一時壊滅状態になったとまで言われている。からくも生き残った人々はカッファを後にし、故郷に向かった。それはすなわち地中海経由でヨーロッパに向かうことだった。そして、彼らがシシリー島のメッシナなどのヨーロッパの貿易拠点の都にたどりつくと、すぐにこれらの港湾都市から疫病が発生し、やがてヨーロッパ全土に感染は広まっていった。歴史に残る「黒死病の大流行」の始まりだった。

このカッファをめぐる攻防戦でジョチ=ウルス軍のとった最後の戦略は半ばヤケクソじみたものだったが、疫病には感染性があることを利用した世界最初の組織的細菌戦だったといえる。

もちろん、歴史的にみてこのカッファで行われた細菌戦がその後、ヨーロッパ全土に広まった黒死病のきっかけだったと特定してもいいのかについては疑問が残る。もともと、このときに流行した黒死病は一三三〇年代に中国で発症した疫病がヨーロッパに伝わったものらしく、当時は中国とヨーロッパの貿易ルートはカッファ経由以外にも海路や陸路で複数存在し、そのいずれのルートからも感染がヨーロッパに伝わる可能性があった。

また、ヨーロッパにおける黒死病の流行がシシリー島周辺の港町から始まったのは間違いはないと思われるが、これらの港町に入港する貿易船はカッファからのものだけでなく、カッファ以外の港湾都市から入港した貿易船も多かった。それらのいずれかに黒死病の患者が乗船していた可能性は否定できない。また、同時代にペルシアからダマスカス、カイロにかけて陸路で旅を続けていたイブン・バットゥータの『旅行記』にも同様の疾患が陸路でペルシアからアフリカ大陸方面に伝わっていった旨が記載されている。カッファを経由しない中央アジアから直接ヨーロッパにつながるイスラム商人たちによる隊商貿易ルートから感染が拡大した可能性も指摘されている。

しかし、世界史史上、類を見ない大規模な感染拡大の初期に世界初の組織的細菌戦があったことは注目に値する。

黒死病の感染拡大

一三四七年にシシリー島で始まった黒死病は瞬く間に近隣に広がりやがてヨーロッパ全土で死者が続出した。一三四八年一月にはジェノバやベニスで感染による死者が出現、三月にピサで確認されるとその後、北側に向かってトスカーナ地方、南に向かってローマへと感染が広がっていった。

ピサより南に約五〇キロ下ったフローレンスの町は、当時「文化の都」として知られていたが、その華やかな「文化の都」すら死者であふれかえることになった。人々は経験的に疫病が伝染すると知っていたため、家族の中に死者が出現すると、その日の晩にドアの外に死体を放置し、ベッチーニといわれる死体の運び屋が夜が明ける前に埋葬場にまで死体を運んでいた。しかし、埋葬場でもあまりの死者の増加に追いつかず、ついには巨大な穴を掘り、百人単位で死体を埋葬していく事態となった。フローレンスの黒死病による致死率は実に五十パーセントに昇ったという。

およそ一年間かけてイタリアを席巻した黒死病は次にフランスに向かった。フランスではマルセイユで感染が始まり、一三四八年の六月には大西洋岸にまで感染が達した。このときのフランスでの感染拡大のスピードを計算すると一日、約二―八キロになる。これは大体人間の歩行による移動の速度に相当するので、感染が都市から都市へ人の移動によって広がっていったことがわかる。フランスも各地でパニック状態に陥り、家族でさえも感染患者の看病を拒み、墓場や道は死体であふれ、川にも多くの死体が投げ捨てられた結果、衛生状態が悪化し、黒死病以外の疫病も流行し、さらなる感染の拡大を招いた。

今日のドイツに相当する地域も例外ではなく、フランクフルトでは二ヶ月半の間に死者が二千人に達し、ハンブルグでは人口の半分が死亡。黒死病の猛威は大都市だけでなく小規模な村落にも襲い掛かり、実に二万近くの小さな村落が誰にも知られることなく全滅したといわれている。

当然、各地でパニックが起こり、人々はお互いに疑心暗鬼に陥り、ユダヤ人の虐殺、魔女狩りなどの惨劇が各地で発生した。ストラスバーグの町では一万六千人のユダヤ人が虐殺されたといわれている。

一三四八年の八月には感染はイギリスに渡り、一三五〇年にはスウェーデン、ノルウェーにまで達した。

当時の悲惨な状況は今日、西洋に残る子供たちの遊び「Ring-a-Ring O’ Roses」として伝わっている。この「Ring-a-Ring O’ Roses」は日本でいうところの「カゴメカゴメ」に相当する遊びで子供たちが手をつないで輪になって踊るときに歌われる。歌詞をみてみよう。

Ring-a-Ring O’ Roses.

A pocket full of posies.

Aitshoo, Aitshoo!

We all fall down.

バラの花輪で手をつなごう

ポケットにいっぱいの花束つめて

ハックション、ハックション!

みんな倒れる

まず「バラの花輪」とは黒死病に感染した患者の皮膚に生じる出血斑のことをさしている。「ポケットいっぱいの花束」とは腐敗する死体のにおいを消すために犠牲者の服のポケットに花束を詰めたことに由来している。次の「ハックション、ハックション」とは一見すると呼吸器感染の症状を示しているように思えるが、実はもともとは、「ハックション」ではなかった。「Aitshoo!」というこのくしゃみの音を表す表現は元々は「Ashes(灰)」であり、時とともに「ハックション」に変化したのだった。これは死体を焼いて灰にしたことを示している。そして最後の「みんな倒れる」は犠牲者が次から次へと死んでいったことを示している。

当時のヨーロッパでは治療に関しては絶望的な状況だった。名門パリ大学の医師たちも原因が全くわからず、「土星、火星、木星の配置が病気を引き起こしているのではないか」という的外れな議論に終始した。

治療らしきものとしては瀉血があったが、特に根拠があったわけではなかった。それどころか重症患者の病原菌は血液に達し敗血症に陥っているため、瀉血を行った医師たちが患者の血液と接触することで感染し、バタバタと死んでいく始末だった。

当時から病気は伝染するとされていたため、病人が出ると家族でさえ看病を拒み、道端に放置される病人が続出した。本来であれば、こんなときに活躍するのはキリスト教聖職者たちなのだが、この時代においては病人をまず見捨てたのが聖職者たちだった。しかし、聖職者たちの言い分によれば、「病人はいわゆる罪人、つまり神の怒りを受けた人々であり神の救済を受ける対象ではなく、救う価値がない」とされていた。このような考えを持つのは十四世紀のキリスト教聖職者だけだった、と言いたいところなのだが、悲しいことに実はこういった考え方は現在にいたっても根強く残っている。二〇〇二年二月、バチカン人道主義救済機構のドイツ支部長のポール・コルデス枢機卿は「病気にかかる人々は罪人だからだ」と宣言した。コルデスはさらに「病気にかかるというのは、病気にかかる側(患者)に罪や不道徳の行動があるからだ」とまで言い切った。当然、多くのカトリックの聖職者たちはこの意見には反対したが、たとえ一人とはいえ、こういった発言を平然と行う地位の高い聖職者がカトリックの中にいたことは実に残念だと言わざるをえない。

さて、ほとんどが効果のない迷信などに基づいていた当時の治療法の中でひとつだけ、有効なものがあった。それは地中海沿岸の港湾都市で行われた検疫だった。

これらの港湾都市では入港する船に病人が存在する可能性が指摘された場合、乗組員をすべて特別の建物に四十日間に渡って隔離する方針をとり、感染の拡大を防いだ。

ちなみに「検疫」とは英語で「quarantine」というが、これはイタリア語の「四十日間(quarantine)」を語源としている。

ペスト

中世ヨーロッパを襲った黒死病の正体はペストだったと言われている。小松左京は『復活の日』の執筆にあたってカミュの『ペスト』に影響されたことを述べているが、このカミュの『ペスト』は中世の黒死病が現代に発生した場合を描くことによって人間のもつ不条理さを表現しようとした、とされている。

人類とペスト感染の歴史は深い。旧約聖書には、スピルバーグの映画でも有名な「失われたアーク(聖櫃)」をめぐってペストと思われる感染症の記載が登場する。

ペスト菌はグラム陰性通性嫌気性菌で、一八九四年に香港で大流行した際にフランス人細菌学者、アレキサンダー・エルサンと北里柴三郎によってほぼ同時に別々に発見が報告された。発見は北里のほうが数日早かったが、北里のデータは正確さに問題があり、グラム染色の結果もあいまいだった。北里の実験データをみると、どうやら北里が単離したサンプルには肺炎連鎖球菌が混入していたようである。その点、エルサンのデータは正確でありペスト菌の属名に「エルシニア(Yersinia)」として彼の名前が残された。

ペスト菌感染はネズミによって広められることはよく知られている。しかし、正確には人間とネズミの血液を食用にするノミによって感染は広められる。つまり、ペスト菌に感染したネズミの血液を吸ったノミが人間に噛み付くことによって感染を拡大していくのである。

ペスト菌はノミの性質を巧妙に利用して感染の拡大を促す。ノミは胃の部分が微妙に湾曲しているのが特徴で、そのため吸い込んだ血液はこの湾曲した部分にたまって凝血する。もし、吸い込んだ血液にペスト菌が混ざっていた場合、この凝血の塊はペスト菌にとって絶好の培地になる。最高の環境を手に入れたペスト菌はすさまじい勢いで増殖を開始し、ついにはノミの消化管を詰まらせてしまう。当然、ノミは栄養を吸収するはずの消化管が詰まってしまうので、血液を吸っても吸っても空腹な状態になり、さらには飢餓状態に陥ってしまう。そこで、栄養を接種すべくさらに動物に噛み付くことになり、結果として感染の爆発的な拡大を促していく。

人間の体には細菌などの異物が体内に侵入した場合にそれらを駆除する免疫と呼ばれるシステムが存在する。免疫を担う代表的なものは白血球だ。一口に「白血球」といってもいくつかの種類に分類される。細胞内に殺菌作用のある顆粒を有している好中球、好酸球、好塩基球、抗体産生などを担うリンパ球、そしてアメーバ状に異物を中に取り込み内部にある酵素で異物を消化してしまう単球に分類される。

これら白血球たちはペスト感染が起きた際、どうなってしまうのだろうか。

実はペスト菌はこれらの免疫をつかさどる白血球の攻撃をかわすために絶妙な方法をとっている。ペスト菌が人間の体内で増殖するのは二つの段階がある。人間の体内に侵入したペスト菌は免疫反応を避けるために、まず白血球のひとつである単球の中に侵入し、単球の内部で増殖を始める。興味深いことに同じく殺菌能力をもつ好中球と対峙した場合、ペスト菌は死んでしまう。ネズミの脾臓にペスト菌を感染させた実験において、脾臓の中にある好中球がペスト菌の増殖を抑制する一方で、単球(マクロファージ)の内部が好中球の攻撃をさける「ペスト菌の隠れ家」になっていることが報告された。

つまり、ノミを介して血液中に侵入したペスト菌はまず、第一段階として単球の中に入り、ほかの免疫システムからの攻撃を避けながら単球の中で増殖を繰り返しながら移動する。そして血流に乗って近くのリンパ節に到達すると今度は単球から離れて、第二段階の増殖として細胞外での増殖をはじめる。これは臨床症状として「リンパ節の腫脹」として出現する。ペスト菌感染者のリンパ節を病理学的に観察すると細胞外領域が完全にペスト菌で埋め尽くされている姿が観察できる。このリンパ節の腫脹は激しい痛みを伴い、大きさとしては鶏の卵程度にまでいたる。ほぼ同時に頭痛、悪寒、発熱、倦怠感が発症し、その後、あっという間にペスト菌は血液中に出現して感染者は敗血症の状態に陥る。体の末梢にまで炎症が広がり、全身に出血斑が出現し、大抵の場合、菌の産生する内毒素によって全身性の炎症反応を引き起こし多臓器不全、急性呼吸窮迫症候群(重体な状態にある患者に突如発生する呼吸器不全)や播種性血管内凝固症候群(全身性の血液凝固反応の出現)を起こし死にいたることになる。無治療の場合、症状が出現してから三日から六日で死亡してしまう。

では、これらのペスト菌の特徴を踏まえた上で中世の黒死病の流行を考えてみよう。

果たして黒死病の原因は「ペスト菌」だったのか?

今日、中世ヨーロッパを襲った黒死病の原因はペスト菌だったとされている。たしかに記録されている当時の患者の症状はリンパ節の腫脹が記載されており、ペスト菌の感染症状と合致する。しかし、いくつかの疑問が残る。

そもそも、黒死病の原因がペスト菌だった、という可能性が初めて指摘されたのはエルサンと北里の二人がペスト菌を発見した一八九四年の香港でのペスト菌流行のときだった。このとき、ペスト菌に感染した患者がリンパ節の腫脹を発症するのを見て、中世に記載されていた黒死病の主症状であるリンパ節の腫脹と一致するために「黒死病の原因はペスト菌だったのではないか」と指摘され、それ以来定説になってしまった。しかし、リンパ節の腫脹をいう症状はさまざまな細菌やウィルスの感染で認められる特に珍しくもない症状で、これだけで黒死病の原因がペスト菌だったと断定するのは無理がある。

さきにも記したとおり、ペスト菌の感染拡大において欠かせないのはネズミとノミの存在である。ペスト菌に感染した場合、人間だけでなくネズミも死に至る。したがってペストの感染が発生する場合、人間の間で感染が拡大する前にネズミの大量死などの現象(過去にはプレーリードックやリス、マーモットの大量死が認められたこともある)がしばしば認められる。カミュの『ペスト』に影響を受けたとされる『復活の日』においてもMM菌の人類への感染が始まる前にネズミの大量死が確認されるくだりがある。ところが、黒死病について記載された中世の文献を見る限り、こういった人間の感染に先立ってほかの動物に感染が広まったことを示唆するものがほとんど見当たらない。

また、黒死病はアイスランドやヨーロッパ北部の寒い地域でも感染が拡大したことが確認されている。しかし、ネズミが繁殖するためには暖かく温暖な環境が不可欠であり、またノミもその繁殖には最低でも摂氏二十度程度の気温が必要であり、これらの寒い地域でネズミとノミという二つの媒介を必要とするペストの感染が拡大したとは考えにくい(しかも、アイスランドの場合、黒死病が発生したのは冬である)。

さらに黒死病感染がイギリスの農村部でも確認されたことも、黒死病の原因がペスト菌であったことに疑問を投げかける。というのも、農村部のイギリスでは中世においては、まだネズミ(ラット)が生息していなかったことが確認されており、ネズミが不在の環境の中でイギリス全土にまで広がる広範囲の感染拡大がどのようにして起きたのか疑問が残る。

しかし、ネズミとノミがいなかったとしてもペスト菌に感染した人間が移動することによってヒトからヒトに感染が拡大した可能性はある。先にも述べたとおり、フランスでの黒死病感染拡大の速度は人間の徒歩による移動速度とほぼ一致する。ところが、ここにも問題がある。ペストに感染した患者のほとんどはペスト菌を体の外に向かって排出する前に、菌の産生する内毒素によって全身性の炎症反応を引き起こし多臓器不全、急性呼吸窮迫症候群や播種性血管内凝固症候群を起こし死んでしまう。ヒトからヒトにペスト菌が感染するのは、ペスト菌が血流に乗って肺に達した場合のみで、この場合は確かに空気感染によって感染は拡大するが、これは感染者のわずか五パーセントあまりに認められるに過ぎない。ヒトからヒトへの感染だけでは、とてもイギリス全土を覆うほどの感染の拡大をペスト菌が引き起こしたとは考えられない(もちろん、感染患者の死体の処理などに伴う接触感染によってヒトからヒトに感染が拡大した可能性は否定はできないが、黒死病の爆発的な感染の拡大はネズミやノミの媒介なしには考えにくい)。

また、二〇〇四年には複数の墓地に埋葬されていた中世の黒死病犠牲者と思われる遺体の歯に残された細菌DNAの調査が行われたが、ペスト菌のDNAはついに検出されなかった。

さらに、中世の黒死病流行の原因がペスト菌でなかった可能性は意外な方向からも指摘された。

一九九五年から九七年にかけて、エイズの原因ウィルスであるHIVの感染に抵抗のある人々がヨーロッパにいることが相次いで報告された。これらの人々はHIVに感染しても感染に伴う症状を全く発症しないというのだ。細かく調べると、このHIV感染に抵抗のある人は免疫システムを担う免疫細胞の表面に存在するCCR5ケモカインレセプターと呼ばれる受容体タンパク質をコードする遺伝子に変異があることが発見された。

「CCR5―△(デルタ)32」と名づけられたこの変異は、対立遺伝子(人間をはじめ二倍体の生物は遺伝子座において父と母からひきついだ二つの対立遺伝子を持つ)の両方にCCR5―△32変異を持つホモ型遺伝子変異の人はHIV感染に対し完全な抵抗性を有し、対立遺伝子の片方だけに変異を持つヘテロ型遺伝子変異の人も部分的な感染抵抗性を有することが確認された。CCR5―△32変異がHIV感染に対する抵抗性を与えているのは明らかだった。

しかし、CCR5―△32変異を有する人たちはなぜHIVの感染に抵抗性があるのだろうか。

HIVは免疫系の細胞に感染する。これにより感染者は徐々に免疫力を失い免疫不全に陥り、ついには後天性免疫不全症候群(エイズ)という状態に陥り、本来であれば症状を引き起こさないような病原菌に対しても抵抗力を失ってしまう。

CCR5ケモカインレセプターと呼ばれるタンパク質は、免疫系細胞の細胞膜上に存在している。HIVはこのCCR5ケモカインレセプターと結合することによってはじめて免疫細胞の中に侵入することができるのである。これはHIVが免疫細胞の中に入るためのドアを開ける「鍵」を持っていると考えればわかりやすい。そう考えると、CCR5ケモカインレセプターは「鍵穴」に相当する。したがってCCR5ケモカインレセプター変異を持っている人たちの場合、HIVが鍵を使って免疫細胞の中に入ろうとしても、ドアの「鍵穴」の形が変異によって変わってしまっているので鍵があわず、ドアを開けることができない。したがってHIVは免疫細胞に侵入することができず、結果としてこれらの人は感染症状を呈することなくHIV感染に対して抵抗性を持つことになるのだ。

興味深いのはこのCCR5―△32変異を有する人はヨーロッパの総人口の約10パーセントに認められるのに対し、アフリカ、アジアに住む人々やネイティブアメリカンの間ではまったく認められないことである。さらにコンピューターを用いた解析でCCR5―△32変異を持つ人がヨーロッパで急激に増加した年代を推定したところ、約七〇〇年前と算出された。これは中世黒死病の大流行の時期と一致している。また、かつて黒死病が大流行したヨーロッパにだけ遺伝子変異を有する人が限局していることからも、CCR5―△32変異が中世の黒死病の流行と強い関連を持つのではないかと考えられた。

中世における黒死病の流行の際に、感染地域の真っ只中にいたにもかかわらず全く症状を発症しなかった人々がいたことは文献的にも確認されている。一三四八年、黒死病で全滅してしまった修道院で、たったひとり感染症状を発症せずに生き残り、死んだ人々の遺体の埋葬を続けた修道僧がいたことが記録されている。そこで、こういった黒死病に抵抗力のあった人にはCCR5―△32変異があったのではないか、と考えられた。

もし、CCR5―△32変異がHIV感染に抵抗性を示すのと同じようにペスト菌の感染に対しても抵抗性を示すとしたら、当時の大流行の中でたまたまCCR5―△32変異を持っていた人たちが感染を生き延びたのではないだろうか(逆に変異を持っていなかった人は死んでしまったと考えられる)。ペスト菌はHIVと同じように免疫細胞である単球の中に侵入して増殖する。このとき、ペスト菌もHIVと同じようにCCR5ケモカインレセプターを介して単球の中に侵入するのだととすれば、CCR5―△32変異を持っている人はペスト菌の感染に抵抗性を持つことになり黒死病を生き延びることができたはずだ。

それゆえに今日、ヨーロッパに住む人の間にだけCCR5―△32変異が残ったとすればすべてが説明がつく。

ところが、二〇〇四年に意外な報告がなされた。

CCR5ケモカインレセプターを欠損しているマウスを作成してペスト菌を感染させたところ、これらのマウスはペスト菌の感染症状を発症し、正常なCCR5ケモカインレセプターを有する野生型のマウスと比べて致死率、ペスト菌増殖力ともに差が認められなかったのだ。つまり、ペスト菌はその感染の際にCCR5ケモカインレセプターを必要としていないことが証明されたのだった。

つまり中世ヨーロッパにおいて黒死病の流行の際にCCR5―△32変異を持つ人の比率が増加したこととペスト菌は無関係であることが強く示唆された。

中世の黒死病流行の際に、ネズミの大量死などの現象が記録されていないこと、ネズミやノミが生息しにくい環境でも流行が認められたこと、黒死病犠牲者の遺体からペスト菌のDNAが検出されないこと、黒死病が流行した時期にペスト菌とは無関係なCCR5―△32変異を有する人々の比率が高くなったこと、これらのことはすべて、黒死病の原因がペスト菌ではなかったことを指している。

では、黒死病の原因はいったいなんだったのだろうか?

黒死病の症状を記した文献を見ると、リンパ節の腫脹以外に「吐血」がしばしば記載されている。エボラウィルスのような出血性ウィルスの場合、消化管系も含めて内臓が壊死に陥るので吐血が主症状になることが知られている。この点に注目して英国リバプール大学のダンカンらは黒死病の正体を、HIVと同様の感染メカニズム(CCR5ケモカインレセプターを介した感染)を有したエボラウィルス感染症のような出血性ウィルスだったのではないか、と推察している。

しかし、黒死病を引き起こした本当のウィルス(細菌)はなんだったのか、答えはまだ謎のままだ。

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